四、朝鮮通信使四、朝鮮通信使

朝鮮通信使の起こり

徳川家康は征夷大将軍になった時、秀吉の朝鮮遠征によって壊された国交の回復の必要性を痛感した。
しかし、朝鮮では依然として対日感情は悪く、日本の態度には懐疑的であった。
処がたまたま日本から脱出して帰国した俘虜から日本の事情を聞かされた朝鮮政府は、俘虜の送還問題もあったので、従来の態度を一変し、修好に応ずることにした。
交渉をはじめて4年後の慶長12年(1607年)にようやく和平が成立し、その第1回の通信使を日本へ派遣することとなった。
以後約200年にわたって12度、通信使の来朝があった。

和田宮と通信使

幕府の慶事が有る毎に来朝した通信使は、兵庫の地に11度着いている。
11回の通信使を受け入れた兵庫津に現在記録がきちんと残っているのは宝暦14年分である。
岡方文書として上中下3冊本で記録されている。
『朝鮮信使来朝帰帆官録』宝暦14年(1764年)5月の記事には次の様に記されている。
帰国途中に兵庫津へ寄港したが、東風が強くおまけに雨天のため防災作業が行われたが、後に暴風対策として和田宮へ立願した。
翌日の海上は平穏で立願のおかげだと胸を撫で下ろしたありさまが記されている。

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